新聞の表題収集
小学4年生の頃だった、生家の隣のタバコ屋に2歳上の人がいた。和男さんという名前だった。そこのご主人は新聞社に勤めておられた。和男さんはお父さんからもらったと言って新聞の表題を沢山集めていた。
私は、それがうらやましくてしょうがなく、重複して持っていたものを分けてもらった。自分でも、家で取っていた北國新聞をはじめ、近所で毎日新聞や朝日新聞などをもらい、表題を切ってノートに貼り付けて楽しんでいた。
東京に住んでいた従兄にも送ってくれるよう頼んだ。従兄は調布に住んでおり、府中が近いことから競馬関係の新聞の表題「「馬」競馬新聞」「競週」などという珍しい表題を送ってくれた。和男さんも持っていない新聞だったので自慢の種だった。100個以上になった頃何かこれを集めていることが何になるのだろうと意味を考え始めてむなしくなり、やめてしまった。
万年筆
昭和27年小学校6年になったとき、東京の従兄から万年筆をもらった。嬉しくてしょうがなく、近所の遊び仲間に見せびらかしていた。
友達と話しているうちに、ペン先はすぐ減ってしまうのではないかと思った。そこで、従兄に手紙で、ペン先を50本送ってほしいと手紙を書いた。ほどなく従兄から父にペン先50本も何に使うのだと手紙が来た。父からそんなに減るものではない、使っても見ないでと叱られてしまった。
それでも、胸に刺して意気揚々と学校へ行った。校庭の掃除をした日、家に帰ってから万年筆がなくなっていることに気が付いた。これは大変だと思い、すぐに学校へ行った。校庭掃除の時なく下に違いないと考えあちこち探しまわった。その日、20cm程の大きな石を運んで山に積む作業をした。運んだ時はみんなでいやいやながらしたことを一人で全部罰の場所へ運び、万年筆がないことを確認しまた元の場所へ戻した。必死になれば力は出るものだと思った。結局万年筆は見つからなかった。家に帰りなくしたことを祖父に話した。なんで粗末に扱った。従兄がどれだけ働いてかってくれたか、どんな思いでお前にくれたかといわれたことが身に染みた。今でも苦い思い出である。
ヒロちゃんのこと
5歳の頃、近所の母が台所の手伝いに行っていた家にヒロちゃんという子が貰いっ子としてきた。母から遊んであげてと言われ、よく遊びに行った。そこの家は基は造り酒屋だった家を買ったもので大きな家だった。ヒロちゃんはさびしかった様で、「サビへ行きたい」とよく言っていた。ある時ヒロチャンが汽車に乗ればサビへ行けるから行こうというので二人で国鉄の松任駅(その頃は停車場と言った)へ行った。切符を買うことも知らない二人は汽車が来てもこれは違うなどと言いながら、木の背もたれが流線型になった椅子に座り、駅でいつまでも座っていた。夕暮れになり、近所の人が手分けして探しに来て連れ戻された。彼は自営業の機場を継いだ後、病を得てなくなった。心の中に寂寥を抱えていたのだと思う。幼いころの心象である。私は後年サビが小松市の佐美だということを知った。