子供会の思い出


私が小学校に入る前の頃、毎日夕刻に小学生が集まり町内を「火の用心」と呼びかけて歩いていた。5~10人が集まり「ジャンジャン」という木の棒の先の金具に金属の輪をぶら下げた修験者が持ち歩くような棒を先頭に持ってジャラジャラと音を立てて歩いていた。町内を西と東に分け毎日交互に担当した。私の家は西の端で、手取川の7ヵ用水の一つ「中村用水」が流れており、家の脇の橋が西の子供達の歩き始める起点であった。これは子供会が組織される前から続いていたもので私も早く仲間入りしたいと思っていたことを思い出す。

 その後子供会が出来入れてもらった。これは昭和23年に児童福祉法が制定され、全国的に子供会が組織された動きの一環であるが、当時の私にはそのいきさつは判っていなかった。
私の記憶のなかでの子供会は、国鉄松任工場に勤務していた安嶋吉兵衛さんがまとめてくれていたもので、「先生」と呼んでいた。いろいろなことを学んだが、今や断片的な思い出になってしまった。

しめ縄張り
 松任町では毎年春と秋に「若宮八幡宮」と「金剣宮」(かなつるぎ)の大祭が有り、その時各町内の神社のお祭りも行われる。そのお祭りの準備として町内全部の家の前にしめ縄を張り巡らせる。細い荒縄(わら縄)を各家の前に張り、3段に切った紙と30cm位の藁を二つ折りにした物を1m位の間隔で交互にさして行くものである。この作業を子供会が担い作業後描く家から寄付金を集め子供会の運営資金としていた。あの頃生活は貧しかったと思うが、この寄付を断る家はなかった様に記憶している。

ラジオ体操
 私の最初に出会ったラジオ体操は今の体操ではなく、その前の体操だった。夏休みの子供会の朝の学習会に行くと、先生の知人の国鉄松任工場(当時は工機部と呼んでいた)の方が来てデンマーク体操なる物を教えてくれた。「~腕の屈伸上横前下~」等の号令を今でも覚えている。
 新しいラジオ体操が出来ると子供会では毎朝当番が手持ちの鐘(リンと言っていた)をならして参加を促し子供達を集め、町内の菅原神社の隣の先生の家の前に集まりラジオ体操をした。今では夏休みの1週間位しかやっていない様だが、私の子供の頃は毎朝体操をして、カードにスタンプを押していた。







鶴来への自転車旅行
 私の古いアルバムに自転車旅行の写真が残っていた。5年生の時子供会の行事で鶴来町(現在白山市)へ行った時の写真である。参加は5年生以上、最終目的地は加賀一の宮である白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)で道程は片道約15kmであった。総勢15人くらいだったと思うが、その中には町内でただ1軒の自転車屋だった宮木のおっさんも入っていた。幸い自転車を修理して貰う様なトラブルはなかった。初めてみんなの仲間入りをした気がしたものである。







キャンプ

 小学校4~5年の頃、子供会のキャンプが始まった。場所は加賀平野の北側にある倉ヶ嶽の麓の四十万という集落だった。そこは安嶋先生の知り合いのお爺さんの持ち山である。まだ戦後間もなくで家では肉を食べる機会もなかったが、母に肉を水煮して貰って出かけた。テントも張ったが、数人しか入れず、残りの者はお爺さんが建てた隙間だらけの2階建ての小屋に泊まらせて貰った。その後毎年恒例の様に出かけた。先生は工場勤務で有り仕事の都合で早退出来ず集合時間になっても来ないと、皆で国鉄松任工場の門の前に行って「先生~」と叫んだりした。工場は広く声が届くことはなかったと思うが今となっては懐かしい思い出である。

旗源平
子供の頃「旗源平」という遊びがあった。正月に子供が集まり、源氏組と平家組に分かれ、源氏は白地に青色の源氏のマーク、平家は白地に赤色の源氏のマークを印刷した紙の旗を持ち、歳頃を振りその出た目によって旗をやりとりする遊びである。旗は小旗、中旗、大旗、纏が有り、中旗1本は小旗10本と言うようにレートが決まっていた。サイコロを2個振ってその出た目によって1と5なら「ちん(1)ご(5)め(梅)がいち(1)中旗1本」などと声をかけて旗を獲る遊びで有り、纏を獲られると勝負がつく遊びである。私の3~4年上の世代の方がこれを旗の長さ7~80cmの物を作ってくれ、子供会で正月に神社に集まり遊んだ記憶がある。



戻る