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先日白山市に住む姪から、大正5年(1915)の手書きの様な地図のコピーを貰った。主な道路と町名が入った地図である。どなたかの記憶を元に手書きしたものの様である。昭和22年小学校入学の私の子供の頃の記憶と殆ど変わりはなかったが、石同町と石同新町の記載間違いが気になった程度である。
この地図を眺めていると、いろいろなことが思い出されてきた。思いつくまま記憶を辿って見た。
ネット情報ではこの頃はすでに国道が通っていたはずだが見当たらない。地図では明治18年(1885)に東京から新潟経由金沢まで国道が制定されており、大正8年に木之本(福井県)~金沢まで国道12号として現在の国道8号が指定されている。
地図では私の生まれた八つ矢町の先に「金沢往還本線」茶屋町から続く成村(旧出城村)の先に「小松往還本線」と書かれているのが見える。推測するに金沢方面から八つ矢町~東三番町~東二番町~東一番町~四日市町~八日市町~中町~安田町~茶屋町~成村~小 松方面のルートが当時の国道だったものと思われる。
小学校1年生の時国道が鉄筋コンクリート舗装され、コンクリートの養生のため道路一面に藁莚が掛けられていた。その頃学校で全校朝礼の後「八つ矢の者は残れ」と言われ1年から6年の全員が残ったところ「国道のコンクリートの上に足跡が残っていた」と叱られた記憶がある。八つ矢町の過去の先輩が可なりの悪だった様で何かにつけて目を付けられていたようだ。舗装される前は砂利道で道路工夫がはじかれた砂利を道路の中央に寄せる作業をしていた。国道脇にあった私の家の田んぼに砂利が沢山入って父や祖父が嘆いていた記憶もある。私の知っている国道8号が大正8年頃に出来たのであれば、この地図に書かれていない事もうなずける。
この地図には北陸鉄道線と松金電車線が記載されている。北陸鉄道線は我が家の後方50~60mの所を通っており、釘を並べてペシャンコにしたり、線路に耳を当てて遠くを走る汽車の音を聞いたりして遊んだものである。松任駅は「停車場」と呼ばれていた。そこには近所へ養子に来たHさんとのほろ苦い思い出が有るが、それは別項で紹介している。中学生の頃までは冬には沢山の雪が降り、町内の男達が線路の除雪に駆り出されていた。無蓋の貨車に雪を乗せ、その上に乗って手取川の鉄橋の上まで行き、そこで雪を川に投げ落としていたとのことだった。
松金電車線についての最初の記憶は終戦直後の時代であり、八つ矢~東町の停留所の間にいつも止まっていた記憶である。その後しばらくして動いた。八つ矢の停留所は国道脇の田んぼの中にあったが、東町の停留所は街中の家と家の間の狭い場所にあった。私は西金沢近くにあった母の里へ行くのに姉に連れられて乗った記憶がある。
小学4~5年生の頃H君が松金電車線の終点の停留所の前で新聞を売っていた。アルバイトと言うものを一度経験したくて、只で良いから手伝わせてくれとお願いして2~3日間新聞売りをした事がある。電車を降りて直ぐ家に帰る人ばかりで新聞が全く売れなかったことを覚えている。H君は私と同じ高校へ行ったが、若い時に無くなったと聞いた。
たった1枚の地図からも思い出は湧き出てくるものだ。