(地図以外の写真はクリックすると拡大されます)
能登島は七尾湾の中にある島である。私は高校2年(昭和32年)の夏休み同級生とキャンプに訪れた。きっかけは同級生の誰かが1年先輩のNさんという方が能登島出身でキャンプさせてくれると言う情報をもたらしてくれた事による。
夏休みの行動については学校に届ける必要があり、担任のE先生に申出たところ、大人が同行しないなら私が行くと言われた。E先生は行くとしても君たちには一切世話にならない、食事も寝るのも自分1人で監視役だけをすると言われた。当時クラスは機械科、電気科、建築科、土木科、家庭科の生徒からなり、私は電気科で同級生は8名だった。写真を見るとこの8名の内6名と別のクラスの1名の計7名が参加した。参加者達と相談した所E先生ではうるさいだろうから嫌だと言う意見が多数で、誰か適当な人を探そうと言うことになり、頼みやすそうな電気科長のNo先生に頼むことに決め、先生の自宅を探し当てお願いに行った。何だかんだと屁理屈を言ってお願いし、担任を差し置いて行くわけにはいかないと言われる所を、担任の先生には我々が話を付けると言って同行していただいた。結局先生を含め8名でキャンプをした。
キャンプ場は能登島の南東部の小さな半島の様なところにあった。地名は記憶にない。金沢から七尾線で約1時間位の七尾で下車し船で渡った。
松林の中にテントを張り、持ち寄った食材やN先輩が自宅から持ってきてくれた食料で食事を作りお定まりのキャンプを始めた。私は母の実家から貰ったトマトを持参した。食事時の写真がある。食事をむさぼる友のパフォーマンスが懐かしく思い出される。
2日目、初めて能登島の海に入った。忘れてしまっていたが今写真を見ると岩の海岸だった。S君は空気銃を持参した様だ。何か獲物があったと言う記憶は無い。天気が良く気持ちの良い海水浴だったが、海から上がり太陽に当たると体中がヒリヒリと痛く我慢出来なくなった。数分歩いた所に民家があり、お願いして井戸の真水をかぶり生き返った気がした事を思い出した。2度3度となると気が引けたが、折角来たので海に入はいらなければと海に入っては民家へ駆け込む事を繰り返した。3日目は午前中海に入り午後帰宅した。
この稿を書いている内に、もしかすると写真が残っているかも知れないと思いアルバムを見返したところ船の中やキャンプ場でのスナップ写真が4枚出てきた。それを見て原稿を見直した。この能登島行は、同行をお願いした先生とのやりとりと、現地で背中がヒリヒリして能登の海は塩分が多いのかと思った事が何故か記憶として残っている。他は写真を見て思い出した事柄である。数少ない高校2年時の同級生との思い出である。あの頃は、こんなことはやろうと思えばいつでも出来ると思っていたが、実際にはたった1度しか出来なかったのである。
その後、帰省の折能登島へ行った時には、能登島大橋が出来ていて(昭和57年開通)、車で簡単に渡れる様になっていた。キャンプしたのは、戦後間もない頃だったのだなと思い出させられた