八田与一の業績について
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令和3年(2021)5月9日読売新聞朝刊に、「台湾で日本人技師慰霊」というタイトルの記事が出ていた。8日に台南市で日本統治時代の土木技師・八田与一(金沢市出身、1886~1942)によるダム建設から100年たったことを記念する行事が行われた。という内容である。5月8日は八田与一の命日であり、毎年台南で慰霊祭が行われているとのことも記されている。蔡英文総統は「台湾と日本がともに協力し、八田技師に学び、100年後の子孫にも美しい環境を残すよう望む」また「台湾は現在、深刻な水不足に直面しており、このような時に八田技師の業績をしのぶことには格別の意義がある」と述べている。

2019年に読んだ「小説台湾」を思い出し、再度読んでみた。
 小説台湾 拓殖大学学事顧問 渡邊利夫著 月刊誌「正論」2019.1~9掲載

八田与一が100年もの後現地の人に感謝される事績は、「看天田」と呼ばれた嘉南平原を、烏山頭ダムを作り、給水路を整備し台湾の農業を一変させたことにある。
明治中頃日本は産業革命と思われる様な産業発展を遂げていた。その頃稲の凶作などで米不足で米騒動や一揆が発生する事態となっていた。一方日英同盟を結ぶなど対ロシア戦の気運が高まり、軍需産業、重化学工業の発展し農村から都市部への人口移動が激により、農業人口の減少も有り米不足は深刻な問題となっていた。そんな中で、日清戦争の後明治28年台湾が中華民国から割譲された台湾は新開拓地として注目された。
台湾は米輸出地だったが、品質が悪く、内地の米(ジャポニカ種)と違い、日本人の好みに合わない物であった。又最大の農地である嘉南平原は亜熱帯から熱帯に亘る土地で雨期には洪水、乾季には干ばつで米の収穫が不安定な土地であった。

明治34年就任した第4代総督児玉源太郎は、台湾経営の大方針を策定した。
即ち「耕地拡張、水利設備拡張、栽培面積拡大、品種改良、品種検査などを総督府による一元的なプロジェクトにする。」と言うものである。
その方針に従い、総督府は当初米の品種改良に努めた。これには、八田と同年の磯永吉、末永仁が大いに尽力し、20年かけて「蓬莱米」という品種を開発した。

八田は、明治43年台湾総督府に就職以来桃園大圳や日月潭の発電ダムの水源調査などを担当していた。日月潭のダムの水源調査のため山地を歩きまわるうち、嘉南平原の水利灌漑が肝要だとの思いを強くしていた。すでに開通していた南北縦貫鉄道で平原を何度も往復してますます思いを強めていた。さらに水源となる堰堤の適地を探し続け、オランダ統治時代に造られたレンガの堰堤の遺跡の一部を発見した。これは17世紀の遺物であるが、堰堤の適地であることの証と確信し構想を上申した。上司の山形局長、下村民生長官の了解を得て総督府の公式計画書として明石総督(日ロ戦争時の情報将校)に提出され総督府の事業として推進されることとなった。計画書の作成期間は6か月、不眠不休で測量データをもとに設計図を作成し予算獲得を果たした。大正8年4月のことである。

烏山頭隧道、烏山頭堰堤、幹線、給水路の設計、水量の計画など膨大な測量データと予算細目の決定作業は膨大で、又烏山頭堰堤の排水口の標高は高くなく台湾海峡までわずかの勾配で給水路の計画は不眠不休の作業であった。

予算獲得後の建設にあたっても八田は陣頭指揮をとっている。
アメリカへのダム見学、工法の勉強、土木機械の調達などを行い、1920年9月烏山頭堰堤を起工した。工法はロックフィルダム構築法に決定し、さらに改良を施し実行に移した。(関連年表注3)。八田の工法はセミ・ハイドロリックフィル工法(半水生式工法)と呼ばれた。
同時期に嘉南大圳(給水路)建設を開始した。

1922年3kmを超す長さの烏山頭隧道が起工(関連年表注4)した。上流側と下流側から掘削を始めたが、同年下流側80m付近でガス爆発事故が発生した。後に油母頁岩(ゆぼけつがん)層で石油ガス(オイルシェール)が噴出したことが原因と判明した。八田は打ちひしがれたが、とどまることは出来なかった。

翌1923年(大正12年)に関東大震災が発生し、その復旧のため助成金削減を余儀なくされ人員削減を求められた。八田は悩んだ挙句優秀な者は他でも就職口が見つかるという理由で優先して解雇したエピソードがある。

1930年に10年の歳月をかけた烏山頭堰堤、嘉南大圳が完成した。ダムの放水から3日かけて給水路に水が行き亘った。かくして嘉南平原15万ヘクタールの灌漑は達成された。水路の総延長は1万6千キロメートルに達した。貯水量は1億5千万トンである。烏山頭堰堤はアメリカのフーバーダムが完成するまでは世界一のダムであった。

八田は限りある水を有効に利用すべく、ヨーロッパで行われていた「三圃制作農法」関連年表(注7)を取り入れ定着させた。
同じころ、磯永吉、末永仁の気の遠くなるような交配試験により、水稲の改良品種「蓬莱米」がさらに改良されて「台中6号」が完成し、台湾の稲作は安定した。
この凄い大事業を成し遂げ、祖国の礎を気づいた先人を、台湾の人達はいまだに忘れないでいてくれるのだと思う。烏山頭ダムの近くには記念館、公園が有り、八田与一の銅像が建てられている。


明治期の日本はこのような人達の情熱が國を作っていたのだと言うことを忘れてはならない。


八田与一関連年表はここから見られます

参考文献
「小説台湾」 渡邊利夫 著 (産業新聞社 月刊誌「正論」 2019.1~ 9 連載)
他ネット情報など

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