兄 博の思い出短冊
 思い出は、共有する人に話すのが共感できて楽しいものだ。兄とは18歳で私が就職のため家を出るまで一緒に過ごしたが、4歳違っていたため、友達関係も違い、一緒に遊ぶことも少なく、思い出は短冊に書くような断片でしかない。思いつくまま短冊を書き上げてみる。
 この文章を平成29年10月末に、死のとこにあった兄へ送った。嫂の話では途中まで読んで涙でその先が読めなくなったので、読んであげたとのこと。そして11月11日兄は旅発った。
 
兼六園球場
 兄の思い出というと、なぜか兼六園球場の入り口の門の光景を思い出す。兄弟のように育った義従姉とし子の夫が国鉄松任工場に勤めており、国鉄スワローズの後援会から入場券が手に入った。金沢へプロ野球が来るのは珍しく、門の前にはたくさんの人が開場を待っていた。門があくと一斉になだれ込むように入った。門の板戸のような扉のストッパーにしていた大きな石に私がつまずきよろけた。その時、前いた兄が振り向き後ろに向かって「押すな、押すな!!」と叫んでくれたのである。何事も起きなかったのであるが、なぜか私を守ってくれた兄の声と姿が残っている。
 駅伝
 兄は、私と違い足が速かった。高校生の頃だったか、大聖寺~金沢の駅伝に松任チームの1員として美川~松任の区間の選手を頼まれた。私は自転車で伴走した。蝶屋というところまで来たとき北陸線の踏切の遮断機が下りていた。汽車の姿は見えず、兄は足踏みで待機となった。私は早くくぐってゆけば良いのではと言ったが、兄は承知しなかった。気は焦っていたと思うが何か兄の性格の一端を見たようであった。
 耐寒継走
 115日頃だったと思うが、毎年高校対抗の、一人が金沢城1周する駅伝があり、ハンドボール部員だった兄がメンバーに入っていた。毎年走っていた。私はその後高校3年の時応援にゆき、電車の線路上に雪がある道路を兄がこのように走っていたのだなと感慨深いものがあった。
 国体灯火リレー
 走る話が続く、オリンピックの聖火リレーのように、国体の灯火が石川郡を通過したことがあった。その時も兄は頼まれて、郷村の田中集落~林中村の剣先集落まで走った。すでに小松製作所に入社していたので、走る時間に合わせて粟津工場から帰り自転車で田中まで行き灯火を引き継いで走った。走り終わるとすぐに工場へ戻るため、私も自転車で田中まで行き自転車に乗り、兄の自転車のハンドルを片手に剣先まで運んだ。手のひらの皮が剥けたのが先日のように思いだされる。
 田んぼの除草
 五月連休に、田んぼの土返し?を頼まれた。稲の早苗の両脇を長い柄の先に剣先の沢山付いた車が2個付いた道具を押して土をかき混ぜるものである。兄は、早く金沢へ行きたくて、私に競争しようともちかけてきた。私もその気なって道具を押しながら田んぼの中を駆けた。苗を少し踏みつけたようだった。なんかほのぼのとした思い出である。
 本を買ってきてくれた
 私は、5年生の頃近所の水野さん宅で少年朝日年鑑を見せてもらったことからいろいろ調べることが好きになって地理や産物などをよく調べた。その後理科にも興味を持って、6年生の時金沢市立工業高校へ通っていた兄に宇都宮書店で理科の文献を買ってきてくれるよう頼んだ。兄はどうせ小学生が読むのだからと易しい本を買ってきた。私は物足りなくてもっと詳しい本と取り替えてくるよう頼んだ。しかしどうしても交換してきてくれなかった。後で、自分が本屋へ行ったとき、本を選ぶのに迷い、本は使う人が選ぶしかないと思ったものである。
 屋根裏部屋
 私が実家に住んでいたころは、家は松任町字八つ矢町の西の端で中村用水の橋の詰めにあった。家は間口2.5軒奥行11軒の通り庭作りという建物であった。3尺幅の通路が家の前から奥まで通っていたので、実質2間幅の部屋が縦に続いていた。二階建てであったが、2階は部屋になっているのは3畳と6畳の2間だけで他は物置であった。兄と私は前2階と呼んだ暗くて天井のない屋根の勾配の下の部屋に中学、高校の頃住んでいた。
 縄跳び
家の最も奥は物置で土間になっていた。そこでよく縄跳びをした記憶がある。一人でする縄跳びはつまらないので、相手をさせられた。2重跳びの競争の他、縄をひねりながら跳ぶ方法を覚えてきて見せつけられたものである。
 就職
 兄が高校を卒業した昭和30年頃は不況でなかなか就職先がみつからなかったようである。兄は県外へ出たい希望があったが、父の手元に置きたい気持ちと合わず言い合っていたようである。それで、ようやく許されて試験を受けに出かけていたが、いつも2次の面接で体格が小さいとはねられていたと話すのを何度か見た。取りあえずということで北陸製菓という会社に就職し1年か2年たった頃小松製作所へ中途入社することができた。地元なので何人も同期の卒業生がいたと思う。新採で入社した同期生と比べて、中途採用ということで悩んだことだろうと思う。後日、私の結婚直前に小松へ来ないかと誘ってくれたことがある。私も帰りたい気持ちがあったが、同じ工場に入ると何かと比較されることになると思い止めた。
 松任駅
 私が帰省する時は、特急列車の数が少ないので、金沢着の時刻は凡そ見当がつくが、金沢に立ち寄るなどして直ぐの普通列車に乗らないことが多かった。そんな時でも兄はよく松任駅まで来て待っていてくれたようである。帰るときは、電車が来るまで駅の外で立って見送ってくれたものである。
 ブラジルの正月
 小松製作所がブラジルに工場を立ち上げた頃、兄は現地へ派遣された。その頃正月をテレビ撮影されるとの知らせが来た。そしてその放映を待っているところへ現地の餅つき風景が写しだされ、しばらく見ていると兄が餅つきをしている臼の周りを行き来する姿が映し出された。懐かしい思い出である。
 家を建てたとき
 昭和43年に私が家を建てたとき、建前の日に兄が来てくれた。東鮎川のアパートを出て鮎川駅へ行ったところ、少し時間があったので、私は余裕で次の桜川駅まで歩くことにした。途中で時間が無くなり走り出した。兄はさすがに早く、私は間に合わせるのがやっとだった。
 仕事のこと
 小松製作所で検査業務をしていると聞いていたが、どのような仕事をしていたのか私は知らなかった。兄が定年になって「部品計測技術の秘伝帳」という彼の習得した技能の集大成の書物を著わし私に1部くれた。細かいことに気が付く性格が長年の仕事で養われたものだとわかった。
それにしても、よく纏めたものだと感心した。
 東日本大震災 1
 兄は5人兄弟の2番目で長男である。私の家が東日本大震災に見舞われた時、聖一君と2人でいち早く駆けつけてくれ、屋根の破損部分を覆うビニールのブルーシートを張る作業を手伝ってくれた。能登地震の時私と2人で砂袋を作りロープの両端に結び付けビニールシートを抑えた経験が役立った。その時、すでに75歳くらいだったと思う。本当にありがたかった。
 東日本大震災 2
 福島原発が津波の被害で損壊し放射能漏れが起き、柏市内にホットスポットがあるとの報道が出た。その時風況被害があり、娘の友子は子供たちがまだ小さいので大変心配した。妻が兄のほうにしばらくの間預かってもらいたいと頼んだ。兄の一家が快く受け入れてくれた。友子は安心し気持ちが落ち着いたようで感謝していた。子供たちも黒部のトロッコ電車の旅に連れて行ってもらい喜んでいた。ありがたかった。
 地域活動のこと
 兄は、八つ矢の獅子舞についてはこだわりがあったようである。私が物心ついた頃祖父の栄太郎氏が獅子舞の指導者をしていた。兄はその家系であるからか、伝統を引き継ぐことに生きがいを見出したのか、ついには八つ矢獅子舞50年史を関係者と共著した。獅子舞では松任地区の各町内の獅子舞指導にも力を尽くしたようである。同窓会で、お前の兄さんに世話になったとよく聞いた。
 また、「八つ矢公民館五十年の歩み」の編集長として各家に残る資料を記録に残した。地域の伝統を後世に伝えたかったのだと思う。平成29年に帰省した時1部貰って知った。
私は50年あまり団地に住んでいるが、何を残しただろう。反省しきりである。
 白山 1
 昭和40年頃だったか、結婚前に兄と容子さんと博子と私の4人で白山登山をしたことがあった。市ノ瀬で出発しそうなバスを引き止めて乗り込んだことが思い出される。室堂が満員であまり寝られなかった思い出がある。
 白山 2
 会社の三浦先輩が白山に登るというので帰省した。兄の車で出かけたが、雨が降り出して止みそうになかった。兄は危険なところがあるからと今日はやめようと言ったが、三浦さんが何回かもう少し言ってみようと言うので行った。そのうち晴れてきたので上った。甚の助小屋へ着いて昼食を食べようとしたところ、フランス人の姉弟が軽装で食料を持ってきていないようだったので、容子さんが3個づつ作ってくれた私のおにぎりを1個づつあげ、私は兄から1個もらい昼食を済ませた。室堂へ着くと、先刻の姉弟がすでについており、衣服を乾燥室に干していた。そこで、彼らはお礼にと、弟がフランスの実家から持参したワインを1本くれた。そのワインをわれわれ3人で飲んでいたが、その脇を姉のほうが、ランニングシャツと短パン姿で乾燥室へ行ったり来たりしていた。
三浦さんは、この時のことを面白おかしく話している。
 白山 3
 会社の同僚だった渡辺氏と竹内氏と私の3人で白山へ登ろうと帰省した。兄は金沢駅に迎えに来てくれ一緒に上ることになった。我々の歩くのが遅く年寄の登山者に追い越されるので、兄から何度もせかされた。お前の兄さんは負けず嫌いだったなと、今でも日立で彼らとの話にこの思い出話が出てくる。
 白山 4
 いつだったか、帰省した時兄と白山に登った。その時初めて日帰り登山をした。白山は日帰りできるのだと知った。白山はいままで6~7回登った。道はところどころしか覚えていないが、苦しくも楽しい山だ。
 
戻る   まだまだ忘れていることがあると思うが、おいおい書き足してゆこうと思う。
 
平成291016
中村 進