金沢の旅

私は高校時代に金沢へ3年間通っただけで、当時は兼六園以外はほとんど行ったことはなかった。
帰省時などに、たびたび立ち寄って歩いた記憶や、最近訪ねた処などを紹介する。
妙立寺(みょうりゅうじ)(俗称 忍者寺)
金沢の野町広小路の裏通りに「忍者寺」と呼ばれる寺がある。平成3011月妻が昔冬の間寄宿していた家の近くなので、久しぶりに行ってみたいとのことで訪ねてみた。
私は約50年前に一度拝観したが、今はすっかり観光地化して拝観料も1,000円となっていた。寺町は、犀川の南の台地で金沢城の防衛線として寺が集められているところである。中でもこの寺は、加賀藩三代藩主前田利常が祈願所として建立し外的の監視所の役割を持たせたと言われている。大名が参拝するため、数々の防御策が施されており、現代から見ると忍者屋敷の様だと言われ忍者寺と呼ばれている。
外観は2階建て、内部は4階建て7層、中2階、中々2階など複雑で、部屋数が23、会談が29、隠し部屋、落とし穴階段、隠し階段、落とし穴仕掛け賽銭箱、物見台、藩主が平民と同時に祈願できる隠し部屋など種々の仕掛けを備えている。一見の価値はある。

 




兼六園
兼六園は金沢旧市街のほぼ中央にある。北陸新幹線が開通してからは、いつ行っても人の波である。此処は金沢城に付属した林泉回遊式庭園である。加賀藩5代藩主前田綱紀が作庭したのが始まりで代々の殿様が隠居所を作り、辰己用水から水を引き込み、橋を架けるなど改良された。その名前は、中国宋時代の詩人李格非の書「洛陽名園記」の文中から採った、「宏大、幽邃、人力、蒼古、水泉、眺望」の六勝を兼備するという意味で命名されたとのことである。今もあるかも知れないが、兼六園名物に菊桜という桜があった。花弁が何百枚もある桜であったが、咲く時期が他と違いなかなかその季節に会えず見られなかった。今は徽軫(ことじ)灯篭と虹橋から霞が池向こうの内橋亭を見た景色は兼六園を代表する。
兼六園の池の水は犀川の上流から引かれているという。NHKのブラタモリでも紹介されていたが、取水口と兼六園のわずかな高低差を利用し、水を引いた江戸時代の技術の高さに驚かされる。さらに百閒掘を挟んだ金沢城にも水を導いたというから驚かされる。

 
兼六園の苦い想い出
高校1年の5月頃のこと、学校行事で永平寺?へ行く小旅行があった。私は、松任という駅で途中から乗ることになっていた。駅で学校の旅行で途中乗車することになっていると説明したが、駅員は話が来ていないとのことで入場させてくれなかった。汽車が来てそこに友人たちの顔は見えたが駅員は頑として入場させてくれなかった。ついに記者は発射してしまった。私は松任駅で乗車する者をまとめて学校へ行き、留守番の先生に引率の先生の怠慢に対し不満を述べた後、全員を連れて兼六園へ徒歩で行った。花見にはちょっと遅かったが、やりきれない思いで歩き回った記憶がある。
 兼六園の水
兼六園の園内の水は、金沢城の辰己の方向にある犀川の約10km上流から取水した辰己用水で導かれている。高低差約50m(平均勾配1/200)を途中約4kmをトンネルを通し、サイフォンの原理により導かれていたという。前田家3代藩主利常が小松(現小松市)の町人板谷兵四郎に設計させ作ったと言われている。さらにこの水はお堀(兼六園取水口の58m下)を超えて二の丸(兼六園取水口の50m下)迄導かれていたという。驚くべき技術である。
玉泉院庭園
玉泉院丸庭園は、金沢城の西側金沢城の三十間長屋の斜め下、いしかわ四高記念公園の被害側にある。加賀藩三代~五代、十三藩主に手を加えられて廃藩時迄存在していたものを、平成27年再現された。
私がいたころにはなかったもので、帰省時姪に紹介されて訪ねた。
写真は冬の姿である。

成巽閣
成巽閣(せいそんかく)は兼六園の一角にある。前田家13代の斎泰(なりやす)が母のために造営した。謁見の間、鮎の間、貝の廊下、亀の間などは障子の腰板の絵で呼ばれている。2階建て、寄棟造り、柿葺き(こけらぶき)である。2階は群青色の「群青の間」を中心に色彩材質に意匠を凝らした数寄屋風書院造りである。

 

左は謁見野間、右上は兼六園内に向かう入口、右下は正門。













茶屋街
金沢には3か所の茶屋街があった。それぞれ今も面影を残し、何軒かのお茶屋があり三味線の音や芸者さんの姿を見ることができる。

東の茶屋街
金沢駅から近江町市場の近くの武蔵が辻交差点を左に折れ橋場町を過ぎると浅野川大橋に出る。大橋を渡ったところの右側を入ると東の茶屋街がある。最近は観光客が多いのですぐわかる。
ここは3か所の茶屋街で最も多く残っている。よく、金沢の観光PRにその写真が出ている。
検番やお茶屋が残っており、お茶を立ててくれるところ、和風の小物を販売する店等が昔風に残っている。

主計町
犀川大橋を挟んで、東の茶屋街の対角に当たる位置に主計町の茶屋街がある。被害の茶屋街ほどの賑わいはなく、静かなたたずまいである。浅野川に面した通りには昔ながらの格子戸の家が立ち並んでいる。五木寛之さんはこの町にご縁があるようで、著書「金沢あかり坂」でいろいろ紹介している。その中に書かれているされている「暗がり坂」は、彦三町から主計町へ入るところにある。運が良ければ芸者さんの姿に行き会うことができる。


西の茶屋街
武蔵が辻交差点を右に折れ大通りを進み、香林坊、片町商店街を過ぎると犀川大橋を過ぎ少し行くと寺町へ道が分かれる野町広小路に出る。そこを右へ折れ小路に入ると西の茶屋街がある。ここは私に年代では「石坂町」と言われ、昔石川線という電車の終点があった付近である。西野茶屋街は、主に道路の片側に茶屋の家並みが観光用に残っているだけの様だ。
 


長町武家屋敷



金沢は、加賀百万石の城下町であるが、武家屋敷はそんなに多くは残っていないようである。まとまって残っているのが長町である。
尾山神社前から高岡町の方へ入り、すすむと左手の香林坊から片町の裏手にあたる通りに保存地区がある。

寺町台
犀川の南側に野町広小路から野田山に伸びる寺町通りがある。此処には約70の寺院が集まっている。
重要伝統的建造物群保存地区に指定された「寺町台」である。別項で紹介した忍者寺(妙立寺)もこの地区に含まれる。

加賀藩の戦略で南側の防御のため、第1防衛線が大聖寺城、次の防衛線が手取川、第3の防御線として寺を集めた寺院群と言われている。寺町通りに並ぶ野田寺町と、白山参詣路(現R157)沿いの泉寺町からなる。

私が通った高校は寺町2丁目にあり、卒業するまで市内電車で登校したものである。





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