マチュピチュとコルデリヤブランカ

 平成6年7月16日から12日間の行程で山の仲間9名とペルーアンデスの旅に出かけた。文字がなく、黄金の文化を持ち、スペインに征服されたインカ、神秘な空中都市マチュピチュはロマンに溢れ、日本人に最も人気のある世界遺産である。クスコから出発し82km地点からインカ道を歩いてマチュピチュに行き、リマに戻りアンデスのコルデリヤブランカ山群を眺望する旅であった。


クスコからマチュピチュ

 7月17日インカ帝国の首都クスコの空港におりた。空港ではフォルクローレの生演奏に歓迎された。そこはすでに3300mの高地である。クスコの街はくすんだ赤紫色のイメージである。その日は高地順応のため市内見学をした。中心部で賑うアルマス広場、インカの石組のあるサントドミンゴ教会、要塞サクサイワマン、聖なる泉タンボマチャイ遺跡などを見学した。どこでも土産物を売る人がたくさんいて近寄ってくる。私はオカリナの原型のようなものを2個買った。市内に戻った後有名な12角の石などを見た。夜はアルマス広場の脇の食堂でチャランコ、ケーナという楽器で奏でるフォルクローレの歌や踊りを見聞きしながら食事をした。「コンドルは行く」「村祭り」はここでもフォルクローレのスタンダードナンバーである。(写真左上:アルマス広場のカテドラル、右下:チェンチェロからのアンデス遠望)
 18日はワンボックスカーに乗って出かけた。チェンチェロ村というところで初めて白いアンデスの連峰を見た。ピラミダルなサルカンタイ山はひときわ目立っていた。食糧などの積み込みのためオリヤンタイタンボ村で一旦おりて遺跡の中に人が住む集落を見学した。歩いて間もなく世界で一番小さい鳥と言われる「ハチドリ」に出会った。民家の中を見せて頂いたが、家の中に先祖の頭蓋骨がトウモロコシや人形などと共に祭られており、家の中では犬も鳥も共生していた。ここからはものすごい砂ぼこりの道である。途中車窓からベロニカ山(5750m)が望まれた。

  KM82(クスコからマチュピチュまで114km中の82km地点)でバスをおりていよいよ歩行開始である。検問を過ぎウルバンバ川の吊り橋を渡るとインカ道へと入る。テレビで見るような絶壁の中腹の道ではないが、ゆるく長い山道である。約3時間の歩行で最初のキャンプ地ヤクタバタ(2650m)に到着。
 テントが張られると、近所の子供が前に座りキャンディーをねだっていた。(写真左からオカリナ売り、タンボマチャイ遺跡、ペルー鉄道)
 
同じテントのM氏がオカリナの熟練者だということがわかったので、予ねてアンデスでオカリナを吹いてみたいと思って準備していた私は彼と交互に童謡を2曲吹いた。目標を達成したのでその後オカリナはやめた。
その夜E氏が南十字星を見つけ、私も初めて見ることができた。

 19日朝、行動中の料理人4人、ポーター10人、ガイドとサブガイド3人が紹介された。リーダーのK氏の体調が悪くここでリタイヤし、マチュピチュの麓のアグアス・カリエンテスで待機することにしてペルー鉄道の駅へ向かった。

 インカ道の途中馬に乗って学校へ行く少年や、民家から出てきた少女などに出会うことができた。道は谷沿いでところどころ石積みのところもあるが、主として砂利道である。道中最後の村ワイヤバンバに着くころは汗まみれになっていた。約7時間の歩行でキャンプ地ユユチャバンバ(3750m)に到着した。テント村が出来ており、同じようなテントが沢山並んでいたので、自分のテントを見失ったアメリカ人の女性が泣きながら探し回っていた。
 ここでは野生のリャマが多数見られた。夜トイレへ行こうとテントの出口をみると靴が見当たらず、ガイドの名前を呼んで一騒動をした。不寝番が数人いて見張っていてくれたようで、すぐに持ってきてくれた。

 20日 いよいよ本格的な石畳のインカ道である。(左の写真)インカ・トレールの最高点ワルミワニュスカ峠(4198m)へ着く頃は空気が薄いこともあり疲れがでてきて20mほど歩いては立ち止まる状況だった。峠ではワイヤナイ山(5400m)などの展望と心地よい風がご馳走であった。そこからパカマヨ川(3600m)へ下り、休憩したが、くたびれてしまい、せっかく作ってくれた昼食をとる気にもなれなかった。再びルクランカイ峠(3998m)を超え、プユタマルカのキャンプ地(3629m)へ到着。約10時間の行程であった。食事の時女性のTkさんが食べられないというので持参したカップラーメンをあげた。非常食として持参したものが役立って良かった。
 
 21日朝、テント場の頂上からサルカンタイ山(6271m)の雄姿が間近に見えた。この日は石畳の下り道で、道端の植物も多く歩きやすかった。このあたりではランの種類が多いとの話で合った。ウィニャワイニャ遺跡では食堂がありビールに飛びついた。インカ時代のマチュピチュの正門「太陽の門」に近づいた時、リーダーのK氏がサブガイドと共に待っている姿を見つけた。太陽の門ではガイドが全員に目をつむらせ一人ずつ展望場所に連れて行き待機させ、一斉に目を開けさせた。そこにワイナピチュ山を背にマチュピチュの全景が広がっていた。間もなくマチュピチュ(2280m)に着いた。写真で見ると蓋のない箱のようなものが並んでいるのが不思議だったが、茅葺の屋根が無くなり石積みの壁が残っているのだということが実感出来た。写真で見るあの各段の上は幅約8mくらいの草原で、両手に大きな鎌を持った人が草刈りをしていた。(写真上:マチュピチュ、下左よりワイナピチュ山、ワイナピチュ山から見たマチュピチュ全体、アグアス・カリエンテス駅、ペルー鉄道車内)
 そこからはバスでふもとの温泉町アグアス・カリエンテスへ移動した。日光のイロハ坂のようなつづら折れの道をバスでおりた。グッバイボーイは禁止されておりいなかった。
 夜は商店街の中を通って温泉へ入りに行った。温泉は混浴のプールで水着を着用して入る所だった。日本人の商社の駐在員が家族で来ていて話が弾んだ。
 土産を買いお釣りにもらったお札で別ものを買おうとしたが、紙幣の端が切れているから受け取れないという。自分で先ほど渡したものを受け取れないという理不尽を経験した。貧しい国に生きる知恵かもしれない。

22日 バスでマチュピチュへ上がり、隣接するワイナピチュ山へ登った。ここはマチュピチュを作った技術者などが住んだ所といわれている。ここからみるマチュピチュの全景が見られる。その後マチュピチュを散策した。人間の手でものすごい量の石が崩れないように積み上げられており、マチュピチュ以外にもたくさんの遺跡や、道路わきの石積みを作るなど、インカ人の技術力の高さと力の強大さを垣間見ることができたようだ。再びアグアス・カリエンテスの街に下り、バザールなどを散策した。バザールにはケーナ(尺八のようなたて笛)で上手に日本の歌を吹く少年がいた。

 その後ペルー鉄道の展望車でクスコに向かった。両側にそびえる山を見せるため壁から天井に移る部分が透明で上が見られるようになっていた。車内では販売員が民族衣装で踊るなどのサービスがあった。途中の駅で列車が止まるとどこからともなく子どもたちが集まり、キャンディーをせがんだ。戦後の日本の姿を見るようだった。3000mの高原の景色はすばらしかった。クスコの街に近づいたときはすでに夜になっていたが、スイッチバックする気動車の中からみるオレンジ色に浮かび上がるクスコの夜景は絶景であった。

コルデリヤブランカ
 23日はクスコから空路リマへ、そこから車でコルデリヤブランカ(白い峰)展望基地のワラスへ移動。海沿いの砂漠を過ぎると、ところどころ集落があり、子どもたちがサッカーをしていた。屋台に果物を山積みした店が並んでいた。焼き鳥のような焼き肉を1本食べた。屋台の果物の中には、熟させてから食べなければならないものもあり、すぐに食べた添乗員が3日間も下痢をしていたことを後で知った。
 
 24日 車で今回の最高到達点ヤンガヌコ峠(4700m)へ移動。峠の上の旧インカ道を歩いてみた。ペルー最高峰ワスカラン(6788m)やワンドイ(6395m)チョピカルキ(6354m)などの山々や氷河の末端を展望した。帰途オナンコーチャ(母の湖)という氷河湖へ立ち寄った。神秘的な湖面に映るアンデスの山々は圧巻であった。その後、チャクララフの麓のデマンダ谷をトレッキングした。谷とはいえ広々とした公園のようであった。
 
 25日 車でリマへ、途中ペルーのトウガラシを干す農民の働く姿に出会った。広々とした高原で暮らす人々はそれなりに幸せを感じているのだろうと思った。車の都合で昨日と違う車に乗って帰る途中、地震の山津波で埋もれたユンガイという町まで来た時、昨日の運転手が忘れ物といってウエストポーチを届けてくれた。それは私の忘れものだった。ペルー人の人柄をしのばせてくれた出来事だった。
夜リマ空港から帰途に就いた。26日はニューヨークで乗り継ぎ、27日成田へ到着。
世界遺産のテレビ放映を見るたびに思い出す、忘れえぬ旅であった。

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