長 崎

 平成29年3月30日~4月1日長崎へ家族旅行をした。昭和33年春高校の修学旅行で一度訪れたことがあるが、60年経過した今記憶違いかと思われるほど変わっていた。


出島:3月30日

 (写真左から出島、軍艦島、オランダ坂、長崎市街(稲佐山からの夜景)
 出島はかって海に突き出した地形だったとのことであるが、今は埋め立てられ中島川沿いの一角に残っているのみである。真ん中を通る道の両脇に復元された建物が並んでいるが、あまりにも狭い区域だなと感じた。この狭いところが日本に西洋文化をもたらした窓口だったことに感心した。一番船船頭部屋、カピタン部屋、蔵造の貿易商の館、などを巡った後出島内外倶楽部レストランで食事をした。目の前には旧出島神学校の建物が見られた。

軍艦島
 軍艦島は長崎港から南西約18kmの海上にある。旧端島炭鉱の跡地であり、海上からの姿が軍艦「土佐」に似ていることからそう呼ばれることになった由。高島炭鉱の跡地に立ち寄った後軍艦島に向かった、軍艦島には船着き場がなく海が荒れると上陸できなくなるとのことであったが、この日は無事上陸できた。 島の南西側の一部しか見学できなかったが、約63,000平米のところに5,000人もの人が住み町を形成していたとのこと。高層アパートの遺構など当時の生活をしのばせるものが残されていた。明治3年に開坑し昭和49年閉山するまで約100年間日本の高度成長を支えてきた人の遺跡である。

オランダ坂
 坂の長崎と言われ「長崎の女」の歌にも歌われるところで、細い坂道を想像していたが、実際は活水学院という学校へのなだらかな広い坂道だった。

大浦天主堂
 大浦天主堂の外観は高校の修学旅行(昭和30年頃)の記憶の通りだった。幕末の1865年に創建され2015年に創建150年を迎えた。原爆にも崩されることもなくそびえたつ天主堂は長崎を象徴する建造物である。
 大浦天主堂は国宝に指定されており、近年ユネスコの世界文化遺産に指定された。大浦天主堂建設が世界宗教史上の奇跡と言われる「信徒発見」(潜伏キリシタンの発見)に繋がっていることを知った。

稲佐山
 稲佐山は長崎駅の山側にある公園である。
バスとロープウエイで登り、頂上付近のレストランで夕食をとり100万ドルの夜景を楽しんだ。長崎駅エリアのライトが見事だった。


グラバー園:31日
 あいにくの雨だったが、ホテルから徒歩で大浦天主堂に行き、教会関連の展示場を覗いたのち、地続きのグラバー園に行った。修学旅行の時の記憶と違い、グラバー邸の他に旧三菱の建物など大きな建物が移設されて山全体が大きな公園になっている。エスカレーターなども整備されていた。グラバー邸は外観の面影は記憶通りだったが中を見るのは初めてであった。
 トーマス・グラバーは坂本竜馬の活躍した時代の武器商人であるが、廃藩によりつけ売りの回収ができず破産し、岩崎弥太郎の下で開国の時代に日本に貢献したとのことである。修学旅行の時長崎造船所を見た記憶のように長崎港が見渡せた。

外海
 遠藤周作の「沈黙」の舞台となった外海に遠藤周作文学館を訪ねた。以前文庫本で読んだことがあるが、目で見ることで理解が深まった。
 バスで出津(しず)へ移動した。外海の展望が素晴らしいところで、外海歴史民俗資料館の他、ド・ロ神父記念館、出津教会、自然石の石積の上に建つ旧出津救助院など隠れキリシタンの里であり遺跡が多く残る地域である。「道の駅夕陽が丘そとめ」で食べた昼食のバイキングは地域感があふれおいしかった。
 (写真は左から遠藤周作記念館、出津教会、ド・ロ神父記念館)

長崎に戻って中華街で夕食をとった。

眼鏡橋:4月1日
 中島川にかかる全長22mの石造りの橋である。川面に映る姿を合わせメガネに見えることで有名である。平和記念公園へ行く途中で市電を降り立ち寄った。

平和公園
 壮大な平和祈念像のあるところである。修学旅行(昭和33年春)の記憶では祈念像の周りは何もない広場で、そこから原爆で残った浦上天主堂の堂前壁が見えたよう気がしたが、今は整備された立派な公園で、浦上天主堂ははるかかなたで見えた。

浦上天主堂
 平和公園から歩いて浦上天主堂へ行った。爆心地から500mの地点であったため浦上天主堂は完全に破壊されたが昭和34年に煉瓦造りで再建されていた。日本最大規模のカトリック教会と言われている。真新しい感じがした。

長崎原爆落下中心地碑
浦上天主堂から長崎原爆資料館へ行く途中原爆の落下中心地を示す碑のある公園に立ち寄った。記念碑の他爆心地の付近の地層が見えるところがあった。
(写真左から浦上天主堂、被爆した浦上天主堂の壁(爆資料館展示))

長崎原爆資料館

 原爆に関する遺品とパネルの展示で被害の残酷さと再発防止を祈念している。浦上天主堂の堂壁や、三菱造船所の遺品、永井博士のパネルなど戦争の絶対悪を証明するものが多いことで、見る人の心を打つものとなっていた。

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