五木寛之著「新老人の思想」を読んで

「新老人の思想」 五木寛之著 幻冬舎新書 (2013.12.10発行)

この本は、著者自身が日刊ゲンダイに連載したエッセイ45編を纏めて出版したもので有る。従って、同じような文章が何度も現れてきている。私なりに著者の言いたいことを要約して見た。

この本は新「老人の思想」ではなく「新老人」の思想について書かれている。今や、どう生きるかより、どう死ぬかが問題となる時代となった。古希は第3の人生の出発点であり「逝きどき」が問題だと繰り返し言っている。

著者は、人生を「若年階級」(第1世代、30歳まで)「勤労階級」(第2世代、30~60歳)「老人階級」(第3世代、60~90歳)に分けて、第3世代の中の元気な老人を「新老人」と呼んでいる。
結論は、新老人は自立の意識を持て、自分たちの世代は自分たちで相互扶助せよ、公的な扶助は当てに出来ない。確実に近づいてくる「死」をどう迎えるかが問題だ。

超高齢者時代には3つの難関がある。①病気、②介護を受ける、③経済的保証である。①医学は延命を目的とし、その進歩は老人を増やす。皆同じ1票の投票権を持っているので、政治の支配権は老人が持つことになる。②は公的扶助のため予算が増大し第2世代の負担が増加する。いまや家族の保護を当てに出来ない。③は先の見えない不安である。結局は貯金しか頼れない。それに対し超高齢者の生態は①未だエネルギーがある。リタイア感がない。②百歳時代の未来に絶望感を抱いている。認知症、寝たきり、孤独死など穏やかに死ねない不安が有る。人生の目的は長寿ではない。医学の任務は延命ではない。余生を充実して生きることが奨められる。

人生50年と言われた時代には、60歳ともなれば尊敬されていたが、今や100歳以上の方が5万人を超える時代である。ただその8割が寝たきりという現実も有り喜んでばかりはいられない。マスコミは超元気な老人を取り上げるが、寝たきりの老人は自殺することも出来ない。老化は人生の「苦」である事を否定するわけにはいかないだろう。

老いは人間の真実であり、運命なのだ。老化は自然のエントロピーであり、人格、身体の崩壊であり、生命の酸化である。老いは現実で、幸福な老人は少ない。
人は生まれて成長し、家庭を持って仕事をし、やがて老いていく。しかし、実際は心と体をすり減らして生きたあげく、寝たきり老人になる。
芽が出て、若葉から青葉に変わり、やがて紅葉し散っていく。それは見事な自然のリズムである。アンチエイジングよりもナチュラルエイジングを、そしてナチュラルエンディングを私たちは追求すべきではないか。

癌治療が進歩してきたのに癌で亡くなる人が多い。癌は一般的な老化現象だ、高齢化すれば癌発生の可能性は高くなる。養生は自然に老いる工夫だ。その年齢なりの自然の老化が目標だ。老化は自然の成り行きであって病気ではない。生きて居るだけでも大変だ。

21世紀の新世界は高齢化社会の出現だ。これまでの生き方は、60~70歳までの人生をコントロールすることだった。医療の発達は高齢化社会を作り上げて、医療と介護の公的支出を増やしている。これからの人生の後半は未知の世界である。

生命を尊重すると言うことは、人間を自然の一部として覚悟することだ。「人生75年」この辺が現代にふさわしい言葉ではないか。

大凡このようなことが書かれていた。
この本は2013年12月に発行されている。五木寛之81歳の著作である。それから約8年経過し高齢化は進み、介護施設の送迎車を町で見かけることが多くなった。私は間もなく81歳を迎える。後期高齢者医療被保険者となって病院へ通うことが多くなり、自分の体調を顧みると著者の考えに思い当たる節が多々ある。

やはり人間ドックの受診を義務化し早期メンテナンスをして健康寿命を延ばし、自然な老化を迎えることがこの高齢化社会には必要なのではなかろうか。


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