本「すばらしい人体」(3)
「すばらしい人体~あなたの体をめぐる知的冒険~」

山本 健人著 ダイヤモンド社刊

今回は 第3章「大発見の医学史」について紹介する。第3章は長いので2回に分けて紹介する。医学の大発見は19世紀中頃以降になされているものが多い。今の時代に生きる私は良い時代に生まれた事を感謝する。

第3章        大発見の医学史 (1)

医学のはじまり

古代ギリシャで生まれ「医学の父」と呼ばれるのがヒポクラテスである。ヒポクラテスが弟子達と著した「ヒポクラテス集典」は70篇を超える資料からなる医学書である。医師の心得や守秘義務、倫理観を説いた「ヒポクラテスの誓い」は今でも医学教育に用いられている。
ヒポクラテスは、血液、黄胆汁、黒胆汁、粘液の四種類の体液のバランスが乱れて病気が起こると考えた。これはこの後2000年も正しいと信じられていた。

医師の君主ガレノス2世紀頃、古代ローマ時代に活躍したグラディウス・グラノスは、ヒポクラテスの教えを発展させ文献を収集して膨大な理論を築き上げた。ガレノスは猿や豚などの動物の解剖を繰り返し、知見をまとめた。

ヴェサリウス
の革命的な偉業
16世紀の医師アンドレアス・ヴェサリウスは死体の解剖により大著「ファブリカ」を作り上げた。人体の観察を重視した科学の基本手順を「人体」に適用した。

 血液は循環している

ハーヴィの実験血液が体内で循環している事実は17世紀まで知られていなかった。1620年代イギリスのウイリアム・ハーヴィはガレノスの理論に疑問を感じ、60種類以上の動物を解剖し心臓や血管を詳しく観察した。ハーヴィは心臓が1回の収縮で送り出す血液の量を推定し心拍数を掛け合わせ、1日当たり245kgの血液が全身に送り出される事を示した。体重の3倍以上の量であり、体内で生成出来る量ではないことから血液が体内を循環していることを発表し、ガレノスの血液が体内で作られ全身に配分されるという理論を否定した。血液が循環するには動脈と静脈はどこかで接続している筈だが、ハーヴィはそれを目撃する事なくこの世を去った。毛細血管を観察する事ができなかったからだ。

医学の世界の革命1661年イタリアのマルチェロ・マルビーギは顕微鏡を使って毛細血管を発見した。動脈と静脈は直接連結しているのではなく、各臓器で毛細管に枝分かれし酸素と二酸化炭素の受け渡しを行ったのち静脈に収束していることを初めて明らかにした。これ以後、顕微鏡は医学の世界に大きな革命を起こした。

 顕微鏡の発明と感染症の原因

顕微鏡が明らかにした世界:16世紀後半に顕微鏡が発明されるまで、人の目に見えないものは「存在しないもの」であった。細菌やウイルス、寄生虫等の微生物、毛細血管などの存在は全く知られていなかった。イギリスの科学者ロバート・フックは顕微鏡を自作し、昆虫や植物を仔細に観察し「ミクログラフィア」を著した。

オランダの織物職人アントニ・レーヴェンフックは布地の縫い目や織布の糸を確認するため拡大鏡を使っていた。270倍に拡大出来るレンズを自作し水滴を観察した時、目に見えない微小動物が無数にいる事を発見した。更に人体を観察し白血球や精子、口の中に微小動物を初めて見つけた。しかし、これらの微生物が感染症の原因で有る事は19世紀後半まで知られなかった。

18世紀以前の瘴気説18世紀以前は流行病の原因を「瘴気」(有毒な空気)と考えていた。1849年ロンドンでコレラが大流行した。イギリスのジョン・スノウは井戸ポンプの水が原因で有る事を突き止めたが、学会では無視された。

世界初・手洗いの効果を示した産科医:18世紀以前手洗いは常識ではなかった。手洗いの効果を初めて示したのはハンガリー人の産科医イグナーツ・ゼンメルワイスである。

当時産後の患者に起こる産褥熱に悩まされていた。お産に医学生が立ち会う病棟と助産婦が立ち会う病棟で違いがあり、医学生が死体解剖に立ち会っている事に原因があると考えスタッフに塩素水を用いた消毒液で消毒をさせ産褥熱を激減させた。これも学会では認められなかった。

 全ての細胞は細胞に由来する

病理学者の慧眼全ての動物や植物は「細胞の集団」と言う細胞説が提唱されたのは19世紀の事だ。1830年代にマティアス・ヤーコブ・シュライデンが植物の細胞について、テオドール・シュワンが動物の細胞について報告した。体に病気が起こったときは細胞に変化が現れることを証明したのがルドルフ・ルートヴィヒ・カール・ウィルヒョウである。現在の医療現場で細胞の様子を観察して診断する病理検査である。
当時「血液化膿症」と呼ばれる原因不明の病気があった。この患者の血液中に異常に増えた白血球を観察出来たのだ。ウィルヒョウの細胞説は以後の生物学や医学に大きな影響を与えた。

根強かった自然発生説:放置されたパンからカビが発生することや、虫の死骸からウジ虫が発生する等何もないところから生物が発生する自然発生説は1819世紀頃まで信じられていた。1760年代イタリアのラザロ・スパランツァーニはこれに疑問を持ち、ガラス瓶に入れた肉汁を煮沸し密閉したものと空気に晒した場合の比較を行い、自然発生ではなく外部から微生物が入った事を示した。しかし自然発生説を完全に否定出来なかった。

1859パストゥールはワイン業者の味の悪化の悩みを発酵と腐敗の証明でこの問題を解決した。

 消毒を広めた外科医

リステリンの由来イギリスの外科医リスターが医師になった頃、多くの患者が手術後に感染症で命を落としていた。リスターは、パストゥールの腐敗や発酵が微生物によって起こると言う報告からヒントを得て消毒液として石炭酸を使用しようと考えた。1865年リスターの元に開放骨折を起こした少年が運ばれてきた。この処置として石炭酸をしみこませた布を巻き、頻繁に消毒を繰り返し回復させた。リスターは更に改良し医学誌に報告した。

微生物学の巨人:微生物が体内に入り込んで病気の原因になる事を明らかにしたのはドイツのロベルト・コッホである。病気に罹った人の組織を観察し、その中に特徴的な細菌を次々に見つけた。その細菌が病気の原因か結果かを明らかにするため「細菌を単独で培養して増やす手法」を発明した。19世紀後半にコッホは炭疽症、結核、コレラの病原菌を次々と発見、弟子の北里柴三郎はジフテリア、破傷風、ペストの病原菌を発見した。1905年ノーベル賞を受賞したコッホの理論は「コッホの4原則」として今なお知られている。この原則の重大な意味は「もし原因となる細菌を殺すことが出来たら、それは根本治療になる」と言うことだ。

魔法の弾丸コッホは細菌を観察するため組織を染色した。19世紀半ばには新たな化学染料が次々と生み出された。ドイツのパウル・エールリヒは化学物質で特定の細菌を染められるならば、化学物質で特定の細菌を殺せると着想した。特定の病原菌のみを狙い撃ちする薬を「魔法の弾丸」と呼んだ。

 偶然が生んだ大発見

戦地における感染症:20世紀初頭戦地で兵士が傷の感染症で命を落としていたがなす術がなかった。
1928年ロンドンのアレクサンダー・フレミングは細菌を培養していた培地の一つにカビが生え、更にそのカビの周囲にだけ細菌が育っていないことに気がついた。カビから出ている黄色い液体に「ペニシリン」と名付けたが、薬として使うのは難しいと考え論文発表にとどめた。
それから数年後オックスフォード大学のハワード・フローリーとアーネスト・ボリス・チェインはマウス実験でペニシリンの有効性を確認、1941年人に投与し立証された。第2次世界大戦時連合国兵士を救うため開発が進んだ。

ノルマンディー作戦を支える:青カビの生産とペニシリンの抽出法は次々と改良され、ノルマディー上陸作戦では感染症による死亡を激減させた。フレミング、フローリー、チェインの3人は1945年ノーベル賞を受賞した。ペニシリンは青カビにとっては身を守る物質であり、後に「抗生物質」と名付けられた。その後アメリカのセイマン・ワクスマンはストレプトマイシンを発見しノーベル賞を受賞した。

抗生物質の開発と耐性菌出現のいたちごっこが続き、現在「多剤性耐性菌」が世界の問題になっている。


第4章 あなたの知らない健康の常識
第5章 教養としての現代医療



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