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加賀の俳人千代女は地元では千代尼と呼ばれている。
千代尼は松任(現白山市)では、誰もが知る俳人で、中町の聖興寺には辞世の句を刻んだ千代尼塚や、國の有形文化財に指定された千代尼堂、草風庵などが残されている。
その影響か松任は俳句の盛んな所で、小学校では毎年俳句大会が催され、代表が聖興寺で開催される俳句会に派遣される。私も一度参加した事があるが、当時は未だ俳句を理解しておらず何をしてきたか記憶がない。現在白山市の市報では俳句ポストに投稿された俳句が掲載されている。
千代尼が幼女の頃に「うちんちに 花が咲いたぞ 見にこんか」と読んだことや、「トンボ釣り 今日はどこまで 行ったやら」「朝顔に 釣瓶とられて もらい水」の句は子供の頃からよく聞かされたものである。只、郷土にそのような先人が居たことを伝聞で知るのみで確かな知識は何もなかった。
千代女の里俳句館
白山市のJR松任駅を出ると左側に「千代女の里俳句館」が有る。郷土の俳人「千代尼」を顕彰し観光拠点として平成になってから作られたようである。
平成16年(2004)頃帰省した折立ち寄った所、その前年に千代女生誕300年祭記念の特別展が開催されたとのことで、特別展(前・後期)のために作られた「千代女の生涯」「千代女の芸術・心」(松任市立博物館刊)という資料を手に入れることが出来、その業績に触れることができた。
千代女の里俳句館では、常時HPで俳句を募集しており、白山市の市報には入選句が紹介されている。
芭蕉が奥の細道の道中金沢に立ち寄って逗留したのが1689年7月で、その14年後の1703年に千代が生まれている。生まれたのは聖興寺のある中町と同じ通りの八日市町とされている。俳諧に関心が高かった養父母の支援で、各地の俳人の手ほどきを受けている。十代の頃から北陸の俳壇では知られるようになったものの、松任で生涯を過ごした千代が、広く知られるようになった大きな転機は、1763年第11次朝鮮通信使来日の際、藩命によって行われた「朝鮮通信使献上句」だったと言われている。1775年(73歳)没
朝鮮通信使
朝鮮通信使とは、豊臣秀吉の朝鮮出兵の戦後処理のために派遣された使節団であり、徳川将軍の就任のたびに祝賀の国書を奉戴して来朝しているもので、四~五百人の使節団が全十一回来朝したとのことである。1763年徳川家治将軍の就任を祝う最後の使節団の京都から静岡県湖西市までの迎接に加賀藩が関与した時、千代は「朝鮮人来朝御用上ル」として6本の掛軸、15の扇に自句を書いて献上し詩の交換の御用を務めたとのことである。
その一部を紹介する
福わらや塵さへけさのうつくしき
よき事の目にもあまるや花の春
鶴のあそび雲井にかなふ初日哉
梅が香や鳥は寝させて夜もすがら
鶯やこえからすとも富士の雪
・・・
画賛等
千代尼は狩野派その他の画人等と交流し、自画賛や画人達との合作で掛け軸を多く残したと言われ、特別展には数多くの作品が展示されたとのことである。
その頃の松任について
松任は、中世前期には「松任氏」の居住する小村落であったが、一向一揆の旗本「松任組」の拠点と成り、手取川扇状地の政治的中心地となり、北陸街道・木曾街道・金石往還・松任鶴来街道が濃さする交通・情報が集中する所となってきた。天正11年(1583)前田利長が松任城に入城、4万石の城下町となり町が形作られる様になった。その後丹羽長重の領地となるが、関ヶ原の戦いの後松任城は廃城となった。前田利常により寺院・商家の移転等で町の整備が行われたが、金沢城下の発展により幕末頃まで整備拡張は行われなくなった。(特別展資料より)
天明5年(1785)の地図が資料に載っているが、町の構成は私の子供の頃と変わっていない事が分かった。。