依田勉三は、明治初期未だ維新政府の体制が定まらない時期に不屈の精神で北海道開拓に挑んだ傑物である。その挑戦の最も悲惨な状況にあった最初の3年間を中心に、作家で映画監督の松山善三が小説に著した。
私はこの本を昭和54年に初版を購入して読んだ。私の殆どの蔵書は東日本大震災後家を建て替えるとき処分してしまったが、この本は手放せなくて残していた。先頃NHK朝の連続テレビドラマ「なつぞら」で草刈正雄演じる泰樹さんが帯広の開拓一世として登場したことで思い出してこの本を読み返した。
依田勉三は伊豆の豪農の二男であった。旧上田藩士族鈴木親長の長男銃太郎、教育者渡辺勝と共に未開の地北海道十勝群帯広村の開拓を志し、出資者を募り晩成社を結社した。晩成社は土地開墾、耕作、牧畜、造林、農業を目的とし15年後に1万町歩の耕地を獲得することを目標に、明治14年現地調査した後明治16年27人で北海道に渡り開墾を始めた。
当時北海道は廃藩置県で3県に区分されたが、自治体は機能して居らず、日高山脈の東は手つかずの状態で、狩猟生活者のアイヌが自由に生活をしている土地で、道路もない状態であった。
勉三達は明治16年開墾を始めたが、荒れ地の開拓は遅々として進まず、先住民アイヌ二は受け入れられず、北海道庁の無理解等で入植者に開墾地を分け与えるという希望も与えられず、天候不順、鳥獣害、蝗(イナゴ)害、等で作物は出来ず食料の確保もままならず、生活は悲惨を極めた。それでも耕作の機械化や牧畜や酪農に挑戦したが成功せず明治18年には入植者は3戸まで減少してしまった。
勉三の始めた事業は帯広の産業として残ったが、晩成社の事業としては失敗し経営は破綻してしまった。
表紙の「十勝野は」は勉三が死の間際に残した「晩成社には何も残らなかった。・・・・しかし、十勝野は・・・・」と言う言葉である。
この本はその間の絶望的な苦労とそれでも前へ突き進む勉三と去って行く仲間達の惨憺たる姿を描いた物語である。勉三は悲惨な状況の中にあっても己の信念を貫き通す強烈な信念の持ち主で、心に決めたことをやり抜く執念は見事と言うしかない。北海道全体の開拓が進んで居らず時機を得ず失敗してしまったが傑出した偉人の生涯には学ぶべきことが多い。